そして、彼はステージを降りる~よりアイ2016・その3~

その瞬間、一体何が起きたのか彼女にはよく分からなかった。

「薔薇は美しく散る」は琴音も聴いたことがあった。彼女の母は大のベルサ

イユの薔薇フリークであったため、小さい頃からよく母の横でDVDを観ることがあった。

ふと懐かしい気持ちでステージを観ていた、その時である。

演奏は1番が終わり、間奏に入ったところである。

それまでセンターで歌っていた男が一人、おもむろにマイクをステージの上に置いたのである。

一体どうしたのだろう。琴音は不審に思い、由香とともに顔を見合わせた。

すると男は、マイクを持たずに急に大声を出し始めたのである。

「アンドレッ!」

アンドレ?

「一生涯かけて、私ひとりか?」

「え、何?まさかこれって・・・?」由香が眉をひそめてつぶやいた。

 

間違いない。琴音は確信した。

「あの人、オスカルだわ。オスカルになっているのよ!」

そう。彼は歌うことを放棄し、あろうことかオスカルを演じ始めたのである。

驚くべきはその声量だ。彼は今マイクを持っていない。にもかかわらず、

他のメンバーにも劣らない音量を出し続けている。

一体どうすればそこまでの音を出すことができるのか。

しかし、その驚きは次に訪れた衝撃には勝てなかった。

その男が急に、琴音の方を向いたのである。

そして、ステージのへりまでやってきた時、その事件は起こった。

何と、ステージから男が降りてきたのである。

やがて琴音達の前にやってきた男は、琴音を見つめながらこう叫んだのだ。

「アンドレ!私だけを一生涯、愛しぬくと誓うか!?」

琴音の体を何かが走り抜けた。こんな衝撃は今まで受けたことがない。

琴音はもはや呼吸をすることすら忘れていた。

男は続ける。次は観客に向かって高らかにこう告げた。

「近衛隊の諸君!その銃弾で私の体を貫く勇気はあるか!?」

そこからのことを琴音はよく覚えていない。

ただ無我夢中で彼の一挙手一投足に目が釘付けになっていた。

やがて、彼はステージに戻った。そして次の瞬間。

 

彼は凶弾に倒れた。

 

「・・・フランス、万歳。」そう最後に言い残し、彼はステージ上で散っていったのである。

「オスカルッ!!」琴音は思わず心の中で叫んだ。

そして、自分の頬に伝う熱い涙に気づいたのである。

その会場は、万雷の拍手で埋め尽くされた。

凶弾に倒れた男はすっくと立ちあがり、笑顔で愛想を振りまいている。

その後、必死にアカペラ界を生き残るべく、静かに戦いっていきたいという想いを込めて、

男たちは北斗の拳2部作「silent surviver」と「tough boy」でステージを締めた。

〔終章〕

 

電車の窓を黄昏時の街の風景が左から右へ滑っていく。

日々はこうして自分の知らない間に流れて行ってしまうものなのか。

琴音は考えた。こうして自分の身を周りに委ねて時間をやり過ごすのではなく、

たまには途中下車をしてゆっくりと自分の足で歩いてもいいのではないか。

 

「ねぇ、ちょっと寄り道していく?」

隣にいた由香は驚いて琴音の顔を覗き込んだ。そして、

「いいよ。私もそんな気分。」と少し照れたように笑ってくれた。

「それにしても、最後のsilent surviverとかやばかったよね。

全然サイレントじゃなかったし、何よりあのエコー!なにあれ。3人で揃い過ぎじゃない!?

あれってめちゃくちゃ練習してるんじゃないの?」

「ううん。きっと違う。」

琴音はふとそんな気がして自分の考えを述べた。

「多分あの人たちって、そういう感じじゃないと思う。練習もしてるんだろうけど、

なんていうか、全員が同じ方向を向いて同じ呼吸感を持っていて。

何て言ったら良いのか分からないけど、何か練習とかそういうのではないっていうか。

ああ、何言ってるんだろ。」

 

考えがまとめきれない自分にいらついていると、

由香がにやにやとこちらのことを見ていた。

「へぇ、琴音もそんなことを言うようになったんだね。」

「何よそれ。私だってアカペラバンドのメンバーなんだから。」

少しの間見つめあった後、二人は同時に吹き出した。

「ねぇ、由香。」

「何?」

「私、リードボーカルを目指してみようかな。」

その話は現在所属しているバンドでも前々から出ていた。

しかし、琴音は自信と経験のなさからそれを頑なに拒んでいた。

普段ベースパートを歌っている由香は、へぇっと感心して言った。

「琴音もそんなことを言うようになったんですね。」

「私だって言いますよ。アカペラやってるんですから。」

私には何ができるかまだ分からない。だけど、方法は一つだけではない。

彼らのように自由にやりたいようにステージを作ることだってできるのだ。

自分にもできること。自分にしかできないこと。それを1つひとつ確かめるために、

ゆっくり歩いたって構わない。

琴音は、少しだけ背筋を伸ばした。

電車のドアが開く。外から吹き込む風は5月の爽やかさをまだ残している。

その風は、一歩足を踏み出した琴音の髪を静かに揺らしていた。

(終)

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