そして、彼はステージを降りる~よりアイ2016~
〔序〕
それは突然の出来事であった。
彼女は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
つい先ほどまで舞台に立っていた人間が自分の前に立っている。
その思いがけない光景に、彼女は思わず吹き出してしまった。
あぁ、人間は予想外のことが起こると笑ってしまうのだな。
彼女はふとそんなことを考えた。
彼女の目の前に立った男は必死に何かを訴えかけようとしている。
しかし、彼女には彼が何を言っているのかよく分からなかった。
そう言えば何かの本で読んだことがある。
人は思いがけない事物を目の当たりにした時、思考がストップしてしまうのだという。
次の瞬間。男はゆっくりと倒れ落ちていく。まるでコマ送りの映像を見ているかのように、
彼女はその様子を茫然と眺めていた。
それが、あの日彼女が見た風景のすべてであった。
〔その1〕
―それはよく晴れた5月のとある1日であった。
その日、阪急北千里駅前にあるDios北千里では、毎年恒例のアカペライベントが行われていた。
そのイベントには数多くのアカペラバンドが参加していた。
中には遠く名古屋や岡山から参加しているバンドもあった。
朝から始まったイベントもいよいよ終盤に差し掛かった頃である。
舞台には黒尽くめの衣装を着た6人の男たちが立っている。
そのバンドはぷっちだるという名前であった。
そのバンドはこれまでイベントには何度も出演している常連らしい。
真山琴音は大学からアカペラを始めた。
きっかけは大学の入学手続きの際に知り合った桐島由香の誘いだった。
由香は中学時代から合唱部に所属していたが、
大学に入学したのと同時に合唱からは卒業し、アカペラサークルに入団すると琴音を強引に誘い込んだのだ。
北千里で開催されたイベントに来たのも由香からの誘いがあったからだ。
「面白いものが見れるかもよ。」
確か由香もそのイベントを観に行くのは初めてだったはずだ。
大体アカペラのステージで本当に面白いものが見れるものか。
半信半疑には思いつつ、偶然バイトが休みだったこともあり、
朝から由香と二人でイベントに観客として参加していたのだ。
ふと由香に声をかけられた大学のキャンパスのことを思い出していると、
黒尽くめの6人の演奏が始まった。
あ。この曲は聴いたことがある。確か巨人が出てくるアニメの主題歌だ。
バンドによってやっぱり演奏する曲も違うのだな。
琴音は自分たちとは違うそのバンドの演奏に新鮮さを感じていた。
やがて演奏が終了した。どうやらここからMC、つまり曲と曲の間をつなげる「しゃべり」が始まるらしい。
「はい、どうも~。ぷっち、ぷっち、ぷっちだるで~す!」
胡散臭い。友人との会話でそんな言葉を使ったことはない。
しかし不思議なことに、琴音の頭にはなぜかそんな言葉しか浮かんでこなかった。
(続く)